日も暮れ、お客の出入りも少なくなった頃、お店の一番奥の薄暗い席に1客のカップがぽつんと残されている。厚手のカップには飲み口にこびりついたコーヒーのあとと手の脂。一目で飲んでいた人物が長時間にわたって何杯もを飲んでいたことが判る。カップの様子に反してスプーンは輝きを失ってはいない。
POPに隠れるように置かれた灰皿には、根元しか残っていない吸殻が整然と並べられている。何度か交換はされているのだろうが灰と吸殻であふれてしまっている。
テーブルの上には消しゴムの滓と折れたシャープペンシルの芯が散らばっている。書いたものを消し、その上に再び書き記すことを繰り返していたようだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「あのお客さん、やっと帰ったんですね。」
「そんな言い方をするんじゃない。いつも来ていただくお客様だぞ。」
「でも、いくらお客様でも、おかわり自由のアメリカン・ブレンドだけで8時間ですよ。」
「いいんだよ、普段にいらっしゃるときは打ち合わせなのか、少人数でさっと引き上げていくだろ?必ずコーヒー豆をお土産に持たせてあげているよ。お店へのお礼も忘れない。今日みたいな日は仕事が煮詰まっているんだろうな。でも帰り際、晴れやかな表情だったんでキリがついたんだな。」
「作家さん・・・ですか?」
「知らない。訊かないよ、俺は。以前、満席のときに見えて、とにかく座ってコーヒーが飲みたいと言われた時に、花瓶台だったあのテーブルに椅子を持っていって座っていただいたんだ。それからかな、落ち着けるってあの席で仕事をするようになったのは。明るすぎるんでダウンライトを消してもらえないかと要望はあったが・・・」
「いいんですか?」
「他のお客さんには迷惑になっていないし、俺がいいってんだから問題ないだろう。好きなんだよ、ああいう若いのは」
「・・・・」
「さっさと片付けてこいよ。ダウンライトを点けるぞ。」
2007年04月02日
第1話 1脚だけのテーブル席
2007年04月06日
第2話 ティーカップとコーヒーカップ
レースのカーテン越しに西陽の入る窓際の席、口のつけられていないティーカップと半分ほど飲まれたコーヒーカップが残されている。どちらもまだぬくもりが残っており届けられて10分ほども経過していない。紅茶の置かれた側の椅子は元の位置のまま。座られた形跡がない。
暖かいはずの窓際にもかかわらず、凍てついた氷の冷気を感じさせる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「かっこよかった〜。颯爽としてましたね、彼女。」
「かっこいいもんか。大人なら相手や周りのお客にも気を配って当然だろ?あの娘はおかまいなし、自己陶酔とエゴだけだね。子供っぽいっていうか・・・」
「振った男に気を使っても意味ないじゃないですか。」
「振った振られたって言うより、女のほうが新しい男に乗り換えたって感じだな。あの男にとっちゃあ寝耳に水の出来事だ。1分1秒でも一緒にいたくない、借りを作りたくないなんて、つい1ヶ月ぐらい前まで仲良く一緒に来てたカップルが見せる姿じゃないよ。新しい男ができて、その男に過去を知られたくないのさ。玉の輿に乗ったのかな?」
「マスター、ひどい・・・。全部演出だって言うの?」
「別れ話が長引いても困るし、自然消滅を狙っても連絡されたらもっと困る。だからこっぴどく振ったのさ。男のプライドを利用するためにな。」
「そんなぁ・・・」
「他人のことなんか考えてねぇよ、女の方は。男のほうは久しぶりのデートなのか、早く来て女が好きだったロイヤルミルクティを頼んでおいて、彼女が店に着いたらゆっくり話をしようと思っていた。」
「・・・・・」
「女の方はそんな気遣いに気付きもせず、自分勝手な結論だけたたきつけて伝票をつかんで店を出てっちまった。あいつの知り合いが店内にいることなんかお構いなし。後のことさえ無視だ。何か理由が無きゃこんな方法はとらねえよ。」
「そうかなぁ・・・」
「さっさと片付けちまいな。奴さんがひどい顔して戻ってきてもいいようにな。リセットしておいてやるんだ。代わりの珈琲はサービスしてやろう。」
「はぁ〜い。」
続きを読む
2007年04月10日
第3話 静けさの戻ったボックスシート
店内中央辺りにある6人がけのボックスシートにカップセットが交互に3つ。ケーキ皿も同数。どのカップの縁にも口紅がべっとりと付いたままだった。
灰皿は脇にまとめて押しやられ、テーブル中央には蓋が開いたままのシュガーポット。カップの周りにはキャンディーの包み紙や、近所のお店の包装紙が放置され、荒れたという表現が良く似合う風景となっている。
冷タンの水は減ってはいないが、汗も残っておらず長時間が経過したことを物語っている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「歯切れ悪いですね・・・」
「何が。」
「いつもみたいに言わないんですか?」
「何を?」
「あのオバちゃんたちいつもじゃないですか。」
「ああ・・・?そうだな・・・」
「もう。一言云ってやったほうがよくないですか?」
「いえるかよ・・・」
「えっ?だって、その筋の人にだってはっきり言ってたじゃないですか」
「あれはな、責任ある立場の人がいるときに、相手を立てて、筋道を通して低姿勢で話をすれば無茶できないことがわかってるからだよ。オバちゃん相手じゃそうはいかない。感情論だけだからな。」
「へぇ〜。」
「それに、あの人たち誰だか知ってるか?この商店街の若奥さんたちだぜ。」
「え〜っ、あれで若・・・」
「しょうがねぇだろ、先代がどこも元気だからなぁ。そんな方たちに店で恥かかそうもんなら、明日からの客足は無残なもんだろうよ。」
「弱っ!」
「その辺が『大人の事情』って奴だな。あきらめてくれ。」
「しょうがないのか〜。」
「おめぇもそのうちああなるんだよ。」
「ふんっ!!」
2007年04月14日
第4話 座席の背に残った汚れ
窓際の明るい席にカップ2つと冷タンが3つ、そして白いわっかのあとが残った背の低いパフェグラス。テーブルの手前側にきれいにまとめて置かれている。立ち去ったお客は片付ける従業員のことを思い浮かべて、取りやすい位置においてくれたのであろう、気遣いがうれしい。
ただ、椅子の背の上部に小さな手のあとが残っている。アイスクリームのついた手を置いていたのだろう。
「かわいい子でしたね・・・」
「あれっ?見たことなかったかな。よくきてる常連さんだぞ。」
「ええっ?!覚えてない・・・」
「いつもは2人だけだからな。今日みたいに旦那も一緒なのは始めてかもしれん。」
「ん〜・・・。あっ!思い出したァ!!いつも一瞬でブレンドを飲み終わって、風のように帰っていく奥さんですか?」
「いつも背中にいただろ?ちっちゃいのが。」
「あの子あんなに大きかったんですね。お母さん大変だ。でも、マスターが子供好きだとは知りませんでした。見かけによらない・・・」
「何だと、って怒れないんだ。実はあんまり好きじゃない。物の道理がわからん奴は扱いに困る。」
「さっきのは?十分子供好きに見えましたけど。」
「営業用だ。お母さんにはせっかくゆっくり出来る状態で来て頂いたんだ、味わって飲んでいって欲しかったんだよ。」
「あの子、座席の背ごしにカウンターの中をずっと覗き込んでましたよね。何が面白かったんでしょうね?もしかしてマスターの顔?」
「なに言ってんだよ。普段はお母さんの背中で店の中なんか見れないんだ。ケトルから落ちるお湯の色が変わるだけでも不思議なんだろ?視線はずっとドリッパーに張り付いていたぞ。」
「やっぱり興奮してたのかな、あの子。寄りかかって立っていた背もたれに、アイスの跡がついて、乾いちゃってますよ。急いでふいてきます。」
「えっ?じゃあ店のことはいいから急いで追っかけて、子供の手を拭いてこい。あちこちで触ったら大変だ。子供の服を買いに行くって言ってたからな。」
「い、行ってきます・・・。」
続きを読む
2007年04月18日
第5話 モーニングの終わり
朝の10時。騒がしかった店内が急に静かになる。入り口近くの広いテーブルから大勢がそろって出て行った。席には読みっぱなしの新聞と漫画雑誌がそこここに放り出されている。
テーブルの上にはアメリカン・マグとトースト用のプレートがそれぞれ6つ。テーブル中にパンくずが散らばっている。中央に置かれていたはずの花瓶は出窓に移されてしまっている。
引いたままの椅子が通行の邪魔になっており、会計待ちをしているお客が顔をしかめている。
「ねえマスター、開店10時にしません?」
「馬鹿いってんじゃないよ。開店を早くして欲しいって客も多いって言うのに。」
「だって、あの人たち嫌いなんですよ。新聞もってこいだの、煙草の銘柄増やせだのうるさいんですもん。」
「まあ、あんまり癖のいい客ではないけどな。でも、新聞は前の客が置いてったのをさっさと片付けないお前が悪い。煙草は買い置きしておく場所がないからな・・・。銘柄は増やせないことは俺が言っておくよ。」
「隙あらば触ろうとするんですよ!セクハラよ、セクハラ。」
「当初より女性と認められてきたってことかな?最初の頃は小僧扱いだったじゃないか。」
「そうだけど、やっぱりイヤ!ここは夜の店じゃないんだから。」
「わかったから。次回言ってやるよ。それで駄目なら商店会の会長さんに頼んでやるから。」
「商店会の会長さん?どうして?」
「この間来た、黒スーツのおニイさんたちいたろ?あそこのオヤジさんと竹馬の友なんだそうだ。お願いすれば、奴らこの商店街で商売できなくなる。」
「あの人たち、この商店街で仕事してたの?どこのお店?乗り込んで言って文句言ってくる。」
「あれ?知らなかったのか?パチプロだよ。そこのホ−ルが開く直前になるといなくなるだろ?」
「ふ〜ん。やっぱり私の嫌いな人種だったんだ。納得。」
「まともに相手すると頭に来るばっかりだよ。客あしらいの練習だと思って楽〜に応対するんだな。」
「判りました。助けてほしいときは合図します。」


