2008年05月02日

◇忙中閑あり

芽吹いたばかりの新緑が眼にまぶしい日差しの強い午後。
近所の商店主に借りた喪服を着たマスターが汗を拭きふき出かけていってしまったのは、開店して間もない頃だった。
以前のように店を閉めなくてもよくなったマスターは、このような突然の連絡でも必要であれば気軽に出かけるようになっている。

入店して間もない新人といつものウエイトレスは、目の廻るほど忙しいお昼どきを何とかやり過ごしほっと一息ついている。
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「ちょっと忙しかったわね、大丈夫だった?」
「はい、忙しいのは慣れてますから。でも、先輩さすがですね。あんな状態でも失敗も作り間違いもないなんて。」
「ありがと、ちゃんと見てくれているのね。ねえ、訊いていい?」
「はぁ、なんでしょう?」
「どうしてこの店で仕事しようと思ったの?私の時は成り行きでウエイトレスをする気にさせられちゃったからなんだけど・・・。」
「いいお店だったからですよ。居心地がいいし、珈琲は美味しいし。他に何か必要ですか?」
「えっ?お客さんとして来たことがあったの?」
「はい、この1年の間に2〜3度ですけど。そんなに頻繁にこれなかったのは、普段缶コーヒーやスタバみたいな店しか行かない僕にはちょっと敷居が高く感じられてたからなんです。お店に来ても小さくなってましたから。」
「ふ〜ん、そんなもんなんだ。私はふられた彼氏に何度もつれてきてもらってたんで敷居が高いって感じはなかったわね。それよりも恥ずか・・・アワワ。」
「でもね、先輩。来る度に先輩の様子がどんどん変わってたのが印象的でしたよ。」
「私が?あまり変わったつもりはないんだけどなぁ。」
「いえ、随分違って見えました。最初の時は普通のウエイトレスのお姐さんだったんです。それが次に来た時には、マスターの抽出する姿を真剣に見つめているのに気づきました。それだけなら『店内恋愛かな?』と思ってしまったところなんですが、その次に来て驚きました。先輩がカウンターで抽出してるんですもん。しかも珈琲の味はマスターが淹れてくれた物には敵わないにしろ、頑固そうなマスターがOKを出したものなんでしょう?非常に美味しかったのを覚えています。」
「よくそんな歯の浮くような台詞が出てくるわね。前職は夜のお店?」
「いいえ、大型飲食店の厨房で下っ端を1年ほどやってました。さっきのは率直な感想ですよ。ただ、いわゆる珈琲専門店の珈琲を飲んだ経験ははあまりありませんけど。」
「どうして辞めちゃったの?お給料なんてこの先どんどん開きが出てくるわよ。」
「そうですね、強いて言えば気持ちよく仕事ができなかったことが原因となるんでしょうか。同じ一つの事をするにしても指示系統によって手順が全く違ったり、理由を聞いても答えとして納得できるものが返ってこなかったり。今では自分が悪かった面も多分にあったことはよく解っていますが、その時は全然納得できなくって。」
「人が多く集まるといろいろあるわね。自分が悪かったって言葉遣いのこと?」
「そうですよ、よくわかりましたね。どこで解ったんだろう?先生に指導を受けてからは随分意識して話すようにはしているんですけど。」
「このお店に出てる間は大丈夫だったと思うわよ。私はマスターから聞いてたの。オーナーさんのところで矯正されていたんでしょ?」
「あの先生にはいろいろお世話になりました。仕事の事だけでなく、普段人に向けて話す言葉がどれだけ重要な印象を与えるかを気付かせてもらえたんですから。その上、修了時にオーナーから再確認があったんですよ、この店で勤める気があるのかと。」
「え?この店で仕事をしてもらうために基本姿勢を勉強させていたんでしょ?」
「必要なことを学んだ上でもう一度自分を見つめなおして、以前の職場に頭を下げてでも戻りたいと思えばそうしていいって言ってくださったんです。料理人になりたいならきちんと修行した方がいいって。でも、これだけして頂いた恩がありますし、素晴らしい先生やオーナー、マスターに出会って心は決まってしまっていたんです。ここで学ぶべきだって。あの店で学べることよりももっと大事なことが手に入れられると思えたんです。」
「マスターを見習ったら人生失敗するよ、なんて冗談。確かにここの経営陣はそこらにはいないタイプの男よね。あの執事さんも素敵な風貌に不似合いなお茶目な方だったし・・・。あの人たちの姿勢を見習うのはいいけど、生き方まで真似しなくていいからね。これ以上マスターみたいなのが店の中に増えたらたまらないわ。」
「おや?マスターみたいなタイプは苦手なんですか?お客としてみてた時は息のあった仕事ぶりがお店にぴったり嵌って素敵だったのに。」
「仕事人としては好きだし尊敬しているわ。でもね、すぐに人のことを玩具だと勘違いするのよ。君も気をつけなさい。笑い事で済んだ失敗は延々ネタにされるわよ。」
「ご忠告ありがとうございます、先輩。」
「その呼び方、やっぱり違和感がすごくある。お客さんたちみたいに『お姐さん』でいいわよ。」
「いいんですか?『お姉さん』」
「あれっ?何だか微妙にニュアンスが違う気がする・・・。」
「何か間違ってます?」
「ううん、気のせいね。冷たいのを淹れてあげるわ。せっかくだからブラジル・オン・ザ・ロックにしちゃいましょう。さっさと飲んで夕方のピークのための準備をしましょうね。」
「いただきま〜す。」

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posted by 銕三郎 at 00:00| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 珈琲症候群 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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