2008年05月29日

◇失われた味

午後の陽射しは徐々に強まってきた。が、湿気を多く含みはじめた。
街路の植込みにあるサツキも盛りを過ぎ、道端にピンクの花弁を落としている。
換わってアジサイが白いがくを広げ始め、梅雨が近づいていることを教えてくれている。

店内ではいつものウエイトレスは出前に出かけたのか姿が見えず、マスターがカウンターの外に待機している。
午後の授業をサボったのか、高校生の常連が一人でカウンター席に座ってマスターに話しかける。

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「マスター、質問しても大丈夫?」
「ん?構わんよ。ただし、答えられる範囲でしか答えんぞ。」
「いや、マスターの専門の話なんだけど。実はこの間雑誌を見ていたら『コーヒーの3大種』っていう見出しがあったんだ。詳しく読んでいる暇が無くって気になっていたんだけど。3大種って味で決めたの?それとも香り?僕の好きなコロンビアは入選しているの?」
「あのなあ、ブラジル、モカ、キリマンジャロって言うのは種でもなければ品種でもないよ。産地名なんだ。うちで扱っているコーヒー豆は種でいったら1種類だけだ。」
「えっ?1種類?こんなに味わいが違うのに?」
「ああ、そうさ。コーヒーの味は生産地の気候風土に大きく影響される。だから同じモカでも紅海をはさんだイエメン産とエチオピア産では味わいが全く違う。どちらもイエメンのモカ港から出荷されているのにな。」
「モカの名前はそこから来ているんだ。じゃあ3大種って?」
「アラビカ・ロブスタ・リベリカになる。うちで扱っているのはアラビカ種のみだ。その中の品種ティピィカや品種ブルボンは原種だが、生産量も少なく高級品だ。基本は交雑種や変異種が中心だ。コーヒーが世界中で飲まれているのも、これらが生みだされたり、発見されてのことだ。生産量の拡大を促したからな。それ以外では以前にジャワ・アラビカが入った時に比較用にロブスタも貰ったことがあったぐらいかな。」
「あ、思い出した。飲ませてもらったんだ。苦味ばっかりすごかったあの豆だよね。それじゃあリベリカは?」
「昔は結構一般でも多少は手に入ったらしいんだが、現在は国内流通には全く乗らない。」
「美味しいんでどこかが独占しちゃってるの?」
「いや、味はアラビカ種には敵わないらしい。比較するとロブスタそんなに変わらないぐらいのはずだ。」
「なんだかマスターの発言が歯切れ悪い。」
「俺もお目にかかったことが無いんだ。どうしても自分が味わった上での意見じゃないんで歯切れも悪くなる。ここのところは許せ。」
「でもそんなに突出していないものが3大種のひとつなの?」
「この3つ以外はほとんどのものが交配種になるからな。3原種のほうが正しい言い回しかもしれん。まあ他の2種に比べればもともと収穫量もずっと少なかったんだよ。」
「もともと少なかったんだ。でもそれなら希少価値がついて流通しそうなものなのにね。」
「だめなんだよ。作られなくなった理由には 1.病害に弱い 2.生産性が悪い 3.交雑が進みやすいってのもあるんだが、もっと即物的な理由も大きい。お前はコーヒーベルトってわかるか?」
「北回帰線と南回帰線の間の熱帯地域のことでしょう?それぐらいは解りますよ、馬鹿にして。」
「では、その地域の社会的特長を考えてみろ。」
「日照時間が長い、暑い・・・。」
「ばか、自然的な特徴じゃない。社会的背景を考えろ。」
「小さな独立国が多いですよね。植民地だったってことだよね。農業国か鉱物資源国で経済的に裕福じゃない国が多い訳だよね?でも、コーヒーのプランテーションは植民地時代に確立されていて好・不作に左右されはしても価格に反映されるから安定している方じゃなかったっけ。」
「おおっ、お前からそんなにきちんとした解答が出てくるとは思わなかった。だが、やっぱり教科書の中の理解に過ぎんな。現在の社会情勢の理解が足らない。それと産地との関連もな。経済状況が悪ければ社会不安につながる。そうなると…」
「ああっ、そうか。国内対立いや内戦だね。そうか、生産地が戦争していたら農作物の中でも主食じゃないコーヒーなんて後回しにされちゃうんだ。」
「リベリカ種発祥の地リベリア共和国ではそうだったらしい。現地の大使館に問い合わせたら身も蓋もなく『戦争でコーヒーなんかない』と言われたそうだ。今ではこの種を商品として作っている地域がほとんどないんだ。」
「ってことは、今後も特定品種や産地があっさり無くなるってことが起こり得るって話なんだね。なんだか寂しい話ですね。」
「平和なのが一番なんだが、食えなくなれば心が荒むからな。持っている奴を羨むのは正直な反応だな。人間そんなには賢くはできてないってことだ。」
「なるべく美味しい珈琲をたくさん飲んでおいた方がいいんでしょうね。飲めるうちに。」
「俺には生産地にできることは何もない。せいぜい手に入った珈琲を少しでも美味しく淹れるぐらいだな。多くの人が飲んでくれればいい。それで少しでも生産地を思いやってくれればいいと思っているんだ。」

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posted by 銕三郎 at 00:00| 東京 ☁| Comment(19) | TrackBack(0) | 珈琲症候群 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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