2009年04月08日

◇兄貴の本棚

休日の夕暮れ。そろそろ陽が傾き始めた。
商店街のアーケードのおかげで早い時間から店の前に影が伸びてくる。

店頭の行灯と看板に明かりを入れたウエイトレスが、道路に面したボックス席のガラス窓にかかるレースのカーテンを引こうとその席に座る女性客に声をかけた。
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「お客様、お寛ぎの所申し訳ございません、外が暗くなってきたのでカーテンを閉めさせていただきたいんです。前を失礼いたします。」
「あらやだ、夢中になっていて御免なさい。もうそんな時刻なのね。」
「うちの方は大丈夫ですよ。随分熱心にお読みになられてましたね。その本面白いんですね。」
「これ?兄貴の本棚から勝手に持ち出したの。いつもはHQやBLぐらいしか読まないんだけど、冊数と雰囲気に惹かれて第1巻を読み始めたら止まらなくなっちゃったの。先は長いから最新刊までたどり着くのはいつになるか分かんないわね。」
「いいですよね、兄貴の本棚って。自分とはまったく傾向の違う本が並んでいるんだけど、なんだか心惹かれるタイトルがあったり、その人にまったく似合わないタイトルがあったりして。」
「普段は見せないようにしている兄貴の本質が見えてくるわね。この本もコンピュータ関連の本の後ろにびっちりと並んでいたのよ。聞いたらずっと読み続けてきたんで途中で止めるなんて考えられないっていってた。」
「ずっとっていつ頃から読まれているんですか?」
「この第1巻の奥付を見ると20年くらい前になるかしら。でも、初版じゃないのよ。」
「じゃあ私が物心ついた頃から続いているんですか?TVのサ○エ○んみたいな物ですね。」
「えっと・・・、それとはちょっと違うかもしれないわね。あれみたいに1話完結するのなら途中から読み始めたって何とかなりそうだけど、歴史を追うように続いているから、前後関係がわからないと理解できないって兄貴に忠告されたわ。確かにそうなのよ。たとえば今まで読んだ中でも一旦表舞台から退場してしばらくしてから再登場した人物群があるんだけど、以前の部分をきちんと読んでいないと、主人公との複雑な関係が全くわからなくなっていたところよ。」
「そんな面倒なの私にはお手上げですよぉ。登場人物多いんですよね。ただでさえこの店の常連さんの名前だって覚えきれないでいるんですから。」
「新刊の刊行と同時代で読んでいる人たちにとっては大して苦ではないんでしょうけど、後から追いかけて読み始めるのにはハードルはかなり高い気はするわね。」
「でも、追いつく気なんでしょう?はまっちゃったんですね。」
「そうね。でも、兄貴が見てきたものを後追いして、共通の話題にできるようになれたのは良かったかな。兄貴とは歳も離れていて、私には頭は固いし全然かみ合わない世界に住んでるって思っていたから。あいつを理解するきっかけを見つけた気がするの。」
「そうなんですか?私には兄弟がいないんで、そんな話を聞くとすぐに彼氏とかに置き換えて考えちゃうんですけど、それとは違った距離感なんですね。」
「彼氏だったら何か接点があるから一緒に居るんですもの。家族とはちょっと違うわね。それでも歳が近ければ見てきたものも似通っているからそうでもないんでしょうけれど、兄貴とは一緒に遊んだ記憶も無いのよ。赤の他人よりたちが悪いわ。」
「確かにあのお兄さんなら判る様な気はしますが・・・。あれっ?いっけな〜い。すっかり話し込んじゃった。マスターがこっち見てるんで失礼します。」
「御免なさいね、仕事の邪魔しちゃったわね。」
「いいえ、私の方こそ読書の邪魔しちゃいました。あっ、お店の方は暇なんで大丈夫なんですよ。マスターったらカウンターに誰もいないんで話し相手が欲しいだけなんでしょうから。」
「ひどいわね。マスターに怒られるわよ。」
「いいんですよ。その点は慣れてますから。それじゃあごゆっくりどうぞ。」

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posted by 銕三郎 at 00:00| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 珈琲症候群 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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