2009年05月16日

◇あやまちの後始末

街路にあるツツジの花も大半が落ち、そろそろ街の空気に夏の匂いが感じられるようになった。日中の街中の気温が30度を超える日が訪れ始めた。
ゴールデン・ウイークも過ぎ、それぞれの学校の授業も本格的に進み始めたらしく、学生の常連客の足が少々遠のき始めた。
夕暮れにはまだ間がある午後、春から予備校に通うようになった若い常連が、参考書が詰まったディバックを肩にして思いつめた顔をしたまま現れた。随分煮詰まっているようだ。
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「おや、久し振りだな、いらっしゃい。待ち合わせなのか?それならボックス席の方がいいのかな?」
「ううん、いつものをカウンターで・・・。マスター、ちょっと相談があるんだ。」
「財布を膨らませる方法と女の口説き方以外なら相談に乗ってやれるぞ、どうした?」
「ううっ、のっけからハードパンチ・・・。絡んでくるんだけど・・・。バイトさせてもらえないかなぁ。」
「いつもの倉庫整理か?無理だな。坊やがマメでな、整理整頓が当たり前になっちまった。綺麗なもんだぞ。」
「いや、そうじゃなくって、半年ぐらい店で使ってもらえないかな・・・?」
「う〜ん、人は足りてるって言えば足りてるんだなぁ・・・。難しい事情がありそうだな。それを聴いた上でなら考えてやってもいい。手が欲しいところに心当たりもある。」
「多分話さなきゃいけないんだろうなとは思っていたんだけど・・・。突然お願いしてるんだから・・・。」
「言いにくいことなのか?」
「いいえ、どっちかって言うと自分が情けないだけで言い出しにくいんだ。」
「お前が浪人したって話ならもう聞いてるぞ。今時そんなことは恥ずかしくないよな。予備校の費用は親持ちなんだろ?特別な補講でも受けようってのか?それだってまず親に相談するだろうな。」
「うん、予備校がらみじゃないんだ。」
「だとすると、あのできのいい彼女がらみか?」
「うん・・・あの・・・。」
「ふ〜ん、まあこれ以上は何も言わんでもいい。だいたい察しが付いた。親にも相談したくないんだな。となると、ここでバイトってのは厳しくないか?」
「確かに・・・いつ親バレするかしれないもんね。」
「そうじゃない。うちのバイト料をコツコツ貯めてたんじゃ間に合わなくなるだろ。」
「そうだ、ボヤボヤしてられないんだった。」
「そういうことならとりあえず必要な額は先に貸してやる。バイト先も紹介してやるから、そこで稼いだ中からきちんと返してくれればいいさ。シフトは土日がフル、平日は夕方から4時間程度でいいんだな。」
「ありがとう、マスター。やっぱり僕は駄目だなあ。」
「バカヤロウ!お互いにまだ社会にも出てもいないのに、そんなところだけ大人になってどうするんだ。責任って物が付いて廻るんだぞ。まずは彼女と一緒に彼女の両親、いや母親だけのほうがいいか、とにかく頭を下げて来い。それが先だ。この先保険やその他の手続きで迷惑をかける事になるんだ。無闇と金だけで解決しようとするんじゃない。親に話すのは嫌がるだろうが、そこを説得して親に正直に話して怒られて来い。その方がお前のためになる。その上で費用の相談をきちんとするんだ。」
「え・・・彼女のお母さんに話すんですか・・・。そうですね、未成年の僕らに責任なんて取りきれないんですもんね。僕がパニクって右往左往したって何にもなりませんね。」
「ああ、未婚・未成年・無職の身分の自分たちがどうするのか、どうしたいのかを良く考えてみるんだな。彼女の意見もちゃんと聞いて二人で結論を出して親のところに行って来い。」
「わかりました。どっちにしろお金は必要になると思うからバイトの手配はお願いします。」
「予備校の勉強はいいのか?」
「もともと夏休み明けまでは小遣い用にバイトするつもりだったんです。目的は違っちゃいますがいいんです。マスターの紹介だったら条件は最高でしょうし、そこで頑張れば同じ頃までに返済できるでしょうからきちんと勤めます。」
「わかった、約束ができるなら金は明日の夕方までに用意しておいてやる。バイトは来週からでいいな。」
「はい、お願いします。さあ、彼女に連絡してきちんと結論を出さなきゃ。それじゃあマスター、ご馳走さま。」
「会計はつけておいてやる。急いで彼女のところに行って来い。」
「いつもすみません。ありがとう、マスター。」

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2009年05月07日

◇三万の力の結晶

見る人のいない植え込みにツツジが大きく花を広げている。
ゴールデンウイークの真っ最中、都心からそれほど遠くないこの商店街は人通りもまばらになっている。近隣の住人の大半はこの地に留まっていないのであろう。観光地でもないこの地域はこの時期、人気(ひとけ)がまばらになる。

いつもの若い常連客が紙袋を大事そうに小脇に抱え商店街の方からやってきた。
カウンターのいつもの席に腰掛けると紙袋から小さな瓶詰めを一つ取り出した。他にも入っているようだが重要なものはそれ一つなのだろう。

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「マスター、昨日海外から帰国した友人からお土産だって貰ったんだけど、これなんだと思う?正体がわからないと不安で落ち着かないんだ。」
「ああん?俺のところに持ってきたって事は一応食い物なのか?」
「うん、味わってくれって言ってたんだ。」
「よく見せてみろ。壜にパッケージはなかったのか?ラベルもついてねぇじゃねぇか。」
「配るために大きな容器から小分けしたんだって言ってたよ。」
「味見してみるまで内緒って事か。それなら多分・・・。まあ蓋を開けて試してみるんだな。ほら、スプーンは貸してやるから。」
「え〜っ?このまま味見すんの?これ、ねっとりしてるけど火、通さなくて大丈夫?」
「馬鹿野郎!せっかくの珍しい蜂蜜なのに火なんか通したらもったいないだろう。」
「えっ?ハチミツ?だってこんなに赤黒いよ。ハチミツってもっとほら、黄色じゃん。」
「いわゆる単花ハチミツってやつだ。この色だとソバかベニバナってところだろうな。俺も写真でしか見たことがないんだ。お前が貰ったものを先に味見するわけにもいかんだろう?さっさと掬って舐めてみろ。」
「はいはい、マスターの好奇心を刺激しちゃったってわけですね。それじゃあ信用していただきます。・・・うん、確かにハチミツだね。普段のとは違って何だか口の中に残って広がる・・・でも、ちょっとエグ味がありますね。」
「どれどれ、俺もご相伴っと・・・そうか、こんなに違うものなのか。だがこのクセでは珈琲・紅茶にはちょっと合わせられんな。」
「ねえ、マスター。さっき単花ハチミツでソバかベニバナって言ってたけど、どういうこと?」
「ハチミツには食品表示上の約束がいろいろとあってな。まず大きく3つ。「天然」と「精製」と「加糖」に分かれる。添加物があるものは混ぜ物が入っていることを正しく表示しなければならないんだ。「天然」だけが「はちみつ」と表示することが許されているんだ。「精製」は「天然」のものを食べやすく調整するために色や匂いをとった物。「加糖」は字のごとく糖分を加えて調整したものになる。そしてその「天然」のものも2つに分かれる。これが「単花」と「百花」だ。「単花」は字のごとく一種類の花の蜜から、「百花」は花の種類に制限がないものになる。だからこのハチミツは「単花」のしかもミツバチがソバの花からだけ集めたものなんだと思われる。」
「ソバの花だけって・・・選んで集められるものなの?ミツバチって1つの巣箱に3万匹ぐらいいるんでしょ?」
「そこは蜂の習性をうまく活用しているんだな。詳しいことは俺に聞いたって無駄だぞ。前に読んだ事があるって程度の知識だ。」
「ふ〜ん、それじゃあいろんな味のハチミツが花の数だけあるってことだね。」
「どうなんだろうな。蜂が採蜜する時期もあるからな。」
「それでも自分にあったハチミツが他にもあるかもしれないんだ。」
「それは違いそうだな。家ではチューブに入った安物のハチミツしか使わない俺が言っても説得力はないが、どちらかというと使い道に由るといったほうがよさそうだな。」
「??」
「パンにそれもトーストに合う物やコールドドリンクに合うもの、食べ物よりも加工品に合うものと様々にあるらしいからな。」
「なるほど、でもマスターがそんなに自信がないんじゃこれ以上は他に頼れる人もいないよ。」
「どうしても知りたいんなら専門ショップがあちこちにボチボチとできているぞ。味見できるところもあるだろう。」
「そんなお店もあるんですね。今度行ってみます。それじゃあ今日は珈琲を二杯いただけますか?」
「誰かと待ち合わせか?だったら相手が来てからの方が・・・。」
「チッチッチ!解ってないなぁ。このままハニーコーヒーを2種類味比べしようって事ですよ。」
「それなら注文はハニーコーヒー1とフレンチブレンド1ってことだな。」
「え〜っ、おまけしてくれても良いんじゃ・・・?ねえねえ、マスターにも味見してもらうからさぁ。」
「わかってるよ、言ってみただけだ。だがこのクセでは珈琲には合いそうにないぞ。」
「それは言いっこ無し。こんな機会はめったにないんだから。」
「お前の好奇心だって俺とたいして変わらんじゃないか。」

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2009年04月17日

◇新しい風

新しい年度が始まり、桜吹雪の中を歩いてゆく真新しい制服や鞄がまぶしく感じられる。
お店の客も顔ぶれに見慣れない顔がポツリポツリ見られるようになった。まだ店に馴染むには時間を必要とすることだろう。
お店の方でも新しいことを始めたようだ。人が少なくなった午後の店内に、珈琲ではない食欲を掻き立てる香りが漂ってきた。
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「あれれ?マスター、この香りはなに?」
「やっぱり匂うよな・・・。これはやっぱりよした方がいいかな・・・。」
「いったい何なの?新メニューの開発でもしてるのかな?」
「これだけカウンターに匂ってくるようじゃあどうしたものかな。お客によっては珈琲の香りにこだわっているのもいるからな。」
「シチューなのかな?美味しそうな香りだよ。別に珈琲の香りを邪魔しているわけじゃないし食欲をそそられるよ。僕もおなかがすいてきちゃった。」
「どちらにしろ仕込みの問題の方が大きいわけだが…。」
「マスターってば、僕にも味見させてよぉ。こんないい匂いかいでいたら、頭の中食べることしか考えられなくなっちゃうよ。」
「坊やの休日にはどうするかってのと、ランチ時に何食用意するかってところか。双方を含めて最初のランチ専用メニューとしてレポートを提出させてみるか。」
「マスター!!我慢できないよぅ!ねえってば!!」
「あれっ?お前、そんなところにいたのか。何怒っているんだ?」
「うそ〜っ、ひどいよぉ、ずっと声かけてるのに。ねえねえ、僕が味見する!!」
「馬鹿言ってるんじゃない。今日は賄い用のおかずを作らせているんだ。客に出すための物じゃない。」
「でも、マスターの独り言を聞いているとランチメニューの試作をしているのはバレバレだよ。いいから味見させてよ。もう口の中涎だらけで気持ち悪いんだから。」
「そんなのはもう一杯珈琲を飲んどきゃさっぱりするぞ。追加注文は何がいい?」
「あ〜っ、常連の僕にそんな扱い?ひどいよマスター。」
「何と言われようが出さないものは出さない!諦めるんだな。」
「ちぇっ!僕の頭の中にはテーブルに並んだイメージで溢れているのに。」
「ふ〜ん、そこまで腹が減っているんだったら帰って食事して来い。」
「そんな〜、メニュー化するときの参考にしてくれればいいじゃない。参考になったら一口味見させてよ。」
「判った判った、お前は言い出すときかないからな。良ければ味見させてやるから。言ってみな。」
「やったね!じゃあ聞いてよ。この店のテーブルってあまり広くないものでしょ?大きなシチュー皿やスープ皿は無理だと思うんだ。だからファミレスなんかでドリアに使っている小振りの耳のある丸いグラタン皿に入れるのがいいと思うんだ。それから付け合せはカリッと焼いたフランスパンのスライスを2枚、バターは別添えで。グリーンのミニサラダも付くといいな。これに珈琲を合わせてプレートに載せればいいと思う。そうすればいちいち武器セットを事前にテーブルにセットする必要も無いでしょ?」
「ふ〜ん、随分具体的なイメージだな。だが、プレートにすると珈琲を飲み終わるまで下げられないってデメリットもあるんだ。それにだ、それらが全部載るプレートだとテーブルにはそれ以外何も載らなくなりそうだな。」
「やっぱりね。欲張りすぎたかな…?」
「いいや、ドリア皿とフランスパンはいいな。量の調整をパンの枚数でできるのは大きいよ。グリーンサラダなら店にある既存の食材で何とかできるしな。」
「どう?味見させてくれる気になった?」
「でも、その辺のカタログ雑誌や女性誌のグラビアにありそうなイメージでしかないぞ。もう一捻り欲しかったな。まあいい、わざわざ考えてくれたんだ、店内じゃちょっと差しさわりがあるんで、裏に行って坊やに分けてもらえ。」
「ありがとう、マスター。やったね!!」
「さっさとこのマグカップとスプーンを持って行って来い。味の保障はできんからな。」
「大丈夫だよ、この香りなら間違いなく美味しいよ。」
「喫茶店でもカフェでもないんだ。ランチなんか始めて大丈夫かな?」
「平気だよ。僕を含めて昼間に少し重めの軽食を加えて欲しいって思っているお客は少なからずいるよ。絶対歓迎されるって。」
「いや、お客の問題じゃないんだ。こちら側の問題だな。カウンター内が廻るかが重要なんだ。」
「そうか〜、週に3日はお姐さんはあっちだもんね。モーニングのバタバタが終わったらすぐランチの準備なんだね。確かに忙しそうだ。」
「慣れるまでは完全に数量を限定しないとやり切れないないだろうな、坊やも俺も…。」

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2009年04月08日

◇兄貴の本棚

休日の夕暮れ。そろそろ陽が傾き始めた。
商店街のアーケードのおかげで早い時間から店の前に影が伸びてくる。

店頭の行灯と看板に明かりを入れたウエイトレスが、道路に面したボックス席のガラス窓にかかるレースのカーテンを引こうとその席に座る女性客に声をかけた。
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「お客様、お寛ぎの所申し訳ございません、外が暗くなってきたのでカーテンを閉めさせていただきたいんです。前を失礼いたします。」
「あらやだ、夢中になっていて御免なさい。もうそんな時刻なのね。」
「うちの方は大丈夫ですよ。随分熱心にお読みになられてましたね。その本面白いんですね。」
「これ?兄貴の本棚から勝手に持ち出したの。いつもはHQやBLぐらいしか読まないんだけど、冊数と雰囲気に惹かれて第1巻を読み始めたら止まらなくなっちゃったの。先は長いから最新刊までたどり着くのはいつになるか分かんないわね。」
「いいですよね、兄貴の本棚って。自分とはまったく傾向の違う本が並んでいるんだけど、なんだか心惹かれるタイトルがあったり、その人にまったく似合わないタイトルがあったりして。」
「普段は見せないようにしている兄貴の本質が見えてくるわね。この本もコンピュータ関連の本の後ろにびっちりと並んでいたのよ。聞いたらずっと読み続けてきたんで途中で止めるなんて考えられないっていってた。」
「ずっとっていつ頃から読まれているんですか?」
「この第1巻の奥付を見ると20年くらい前になるかしら。でも、初版じゃないのよ。」
「じゃあ私が物心ついた頃から続いているんですか?TVのサ○エ○んみたいな物ですね。」
「えっと・・・、それとはちょっと違うかもしれないわね。あれみたいに1話完結するのなら途中から読み始めたって何とかなりそうだけど、歴史を追うように続いているから、前後関係がわからないと理解できないって兄貴に忠告されたわ。確かにそうなのよ。たとえば今まで読んだ中でも一旦表舞台から退場してしばらくしてから再登場した人物群があるんだけど、以前の部分をきちんと読んでいないと、主人公との複雑な関係が全くわからなくなっていたところよ。」
「そんな面倒なの私にはお手上げですよぉ。登場人物多いんですよね。ただでさえこの店の常連さんの名前だって覚えきれないでいるんですから。」
「新刊の刊行と同時代で読んでいる人たちにとっては大して苦ではないんでしょうけど、後から追いかけて読み始めるのにはハードルはかなり高い気はするわね。」
「でも、追いつく気なんでしょう?はまっちゃったんですね。」
「そうね。でも、兄貴が見てきたものを後追いして、共通の話題にできるようになれたのは良かったかな。兄貴とは歳も離れていて、私には頭は固いし全然かみ合わない世界に住んでるって思っていたから。あいつを理解するきっかけを見つけた気がするの。」
「そうなんですか?私には兄弟がいないんで、そんな話を聞くとすぐに彼氏とかに置き換えて考えちゃうんですけど、それとは違った距離感なんですね。」
「彼氏だったら何か接点があるから一緒に居るんですもの。家族とはちょっと違うわね。それでも歳が近ければ見てきたものも似通っているからそうでもないんでしょうけれど、兄貴とは一緒に遊んだ記憶も無いのよ。赤の他人よりたちが悪いわ。」
「確かにあのお兄さんなら判る様な気はしますが・・・。あれっ?いっけな〜い。すっかり話し込んじゃった。マスターがこっち見てるんで失礼します。」
「御免なさいね、仕事の邪魔しちゃったわね。」
「いいえ、私の方こそ読書の邪魔しちゃいました。あっ、お店の方は暇なんで大丈夫なんですよ。マスターったらカウンターに誰もいないんで話し相手が欲しいだけなんでしょうから。」
「ひどいわね。マスターに怒られるわよ。」
「いいんですよ。その点は慣れてますから。それじゃあごゆっくりどうぞ。」

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2009年03月20日

◇卒業写真

日一日と暖かさが戻り、日差しにぬくもりが感じられる。
街には振袖に袴を付けた若い女性が多く見られる季節になった。
彼女らが抱える卒業写真には大切な思い出が一杯詰まっているもの。

今夜はそんな思い出を抱えた女性が、久しぶりにこの店の扉を開けた。
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「こんばんわ〜、マスターお久しぶり。」
「あれ?久し振りだな、元気そうで何よりだ。」
「マスター、ずっと前に、そうね、高校の卒業記念に作ってくれたあの珈琲って今日できますか?」
「ちょ、ちょっと待て。それはまた難しい注文だな。と言うより覚えてないぞ。」
「あら、マスターともあろう方が忘れちゃったんですか?」
「ああ、定番品や季節商品とかなら覚えちゃいるが、ワンオフのオリジナルでは覚えていられないってところだな。少し時間をくれ、ノートを探ってみるから。」
「ごめんなさい、ふっと思い出に浸っちゃったら懐かしいこの店を思い出したの。そしたらあの時の味を確かめたくなってそのまま来ちゃった。電話でもしておけばよかったかな。」
「う〜ん、ノートをめくってはみたものの、記憶に引っかかるものがまったく無くって駄目だ。何かヒントはないのか?味とか香りとか、トッピングに使ったものとか・・・。」
「えっと・・・▲×◆が入っていたと思う。この季節をイメージしたって説明されたと覚えてますよ。」
「▲×◆か。幾分絞られてはきたな。その中で古いものだから多分これだろう。間違っていたらスマンな。」
「そんな・・・、しょうがないですよ。いきなりで材料すら揃うかどうか解らないのに無理言っているんですから。」
「材料については問題はない。だが、あの頃の味を再現できるかは保証の限りじゃない。」
「えっ?」
「あの頃と今では俺の好みも変わっているし、アレンジ珈琲に対する姿勢もな。だから忠実な再現ではない。まあ、一層深くなっていると信じたいがな。」
「そっか〜、マスターも進化しているってことですね。」
「ワインにもヌーボーがあるように、若いからいいって事もある。だがそこには戻れないものだ。しかし寝かせただけの熟成があるはずなんだがな。」
「実は・・・卒業の前後に別れちゃった彼と偶然街で行き逢ったの。」
「ほう、それでその頃の事を思い出したって事か。」
「ええ、サラリーマン風だったけどなんだか自信に満ちてたんだ。自分の選んだ道をきちんと進んでいるんだって良くわかった。」
「それに引き換え自分は?って考えたってところか。」
「そう、あの頃目指した自分になれているのかな?ってね。」
「それを思い出すためにあの頃の思い出の珈琲か、なるほどな。」
「御免なさい、無理言って。」
「いいや、たいした手間じゃないし、逆に俺すら忘れていた珈琲を覚えていてくれたことが嬉しいよ。さあ、出来上がったぞ。」
「うわ〜っ、綺麗!!見た目の記憶はほとんどなかったの。こんなに綺麗な珈琲だったのね。」
「いや、当時の俺はまだ見た目に拘るほど気を使いはしてなかったからこんな手間はかけてなかったはずだ。これが時を重ねたって事だろうな。」
「味は・・・なんだか懐かしさがこみ上げてくる。あの頃もこんな風にマスターに迷惑ばかりかけていたのね。」
「昔からお前はいつも頑張っていたじゃないか。今だってそうだろう?この店に寄り付かなくなったのは仕事に全力を注いでるからだろうが。無理すんなよ。いつだって来られるんだ。この店はいつだって待ってるからな。」
「ありがとう、マスター。仕事が煮詰まっちゃってあせってたのかな。そんな時にあの人の顔を見かけちゃったから・・・。そうね、もう大丈夫。もうしばらくゆっくりとこの珈琲を味わってゆっくりしたら、明日からまた頑張れると思う。」
「あとはお好きに。ウエイトレスにも邪魔しないように言っておくから。」
「相変わらずね、マスター。たまには独占して相手をしてもらいたいな。」
「俺なんかじゃもったいないよ。そんなのは今の彼氏にお願いするんだな。」

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