徐々に日が短くなって来た秋の日。
とっくに閉店時間を過ぎたが、店内からは明かりが伸びている。
荷物を抱えた女性の常連客が慌てた様子で店の扉を開ける。
「みんなまだ居ますか?」
「ああ、お前さんが来るまでは帰らないって奥のほうでとぐろ巻いてるよ。」
「ああよかった。ちゃんとお別れが言えないかと心配していたの。マスターにもご迷惑掛けて済みません。あ、これ石鹸ですけど使って下さい。」
「なあに、いいよ。それより本当に突然だったなぁ。旦那さんの都合だって?最初聞いたときはお前さんのことだ、旦那を単身赴任で放り出すんじゃないかって噂してたんだ。」
「何よそれ、ひど〜い。」
「だって、娘さんのこともあるから、転居なんてましてや地方になんて絶対行かないと思ってたのにな。」
「マスタ〜、私のことどんな風に思ってたのよ!」
「ん?ここでの普段のお前さんを見ていると、田舎暮らしは絶対無理だと思ったんだ。ご近所さんとの濃密な関係は疲れるぞ、お前の性格からしたら・・・」
「それはそうね、すぐに深入りしてなんもかんも背負い込んじゃいそう・・・って何言わせんのよ。」
「そうそう、そんなんじゃあ関西では笑いも取れんしな。」
「あ〜もうマスターったら。私が引っ越すのはお笑いの修行のためじゃないし、引越し先は関西じゃないの。わかってる?私が来なくなると寂しいからって、常連のあの子達みたいなノリで別れの雰囲気ぶち壊さないで!」
「別に、寂しいのは俺じゃなくってお前のほうだろ?お店のマスターってのはな、待つのが仕事なんだ。極端な例を出せば、亡くなったことがわかっている常連だって俺は待ってるんだ。この店の中では普段の生活がどうでも関係ない。この店に一歩入れば俺のリアルなんだ。そしてその「リアル」を共有したいと集まってくるのが常連だろう。」
「マスターのバカ。解ってるわよそんなこと。旦那に付いて行くって決めたのは私だし、娘を説得したのも私なんだからここに通えなくなる寂しさを一番解ってるのは私よ。連中の優しい言葉聞いたらここでの『私』じゃなくなりそうだから、それまではどうしても『私』でいたかったのに。」
「悪いな、ガキ共に頼まれたんだ。連中はお前ほど店の中と外での顔は違わない。これからも連絡を取るにせよ、お前さんの本当の顔を見ときたかったんだろ。飄々と引っ越すことを伝えて帰っちまったからな、この間は。」
「マスター、覚えてなさいね。私は「素」のほうがキッツイんだから。ぜ〜たいお返ししてやるんだから。」
「おっと、それは勘弁しろ。ほら、連中が待ちくたびれてるぞ。早く行ってやれ。」
「なんだか肩の力が抜けちゃった。そうだ、まだ珈琲のオーダーは大丈夫?」
「ああ、うちにないもの以外ならなんだって作ってやる。とりあえず最後だからな。」
「それじゃあ今までの私じゃ絶対に頼めなかった『カフェキュラソー』がいいわ。」
「クールじゃないが砂糖のような甘さではない、今のお前にはぴったりなチョイスだな。爽やかなオレンジの香りもにくい演出だ。」
「私のために遅くまで本当にありがとうございます、マスター。豆の注文は以前に教えていただいたアドレスでよかったんですよね。」
「ああ、OKだ。メ〜ルは気長に待っててやるよ。どうせ引越しでごたついてるんだろうしな。落ち着いたら連絡してこい。引っ越し祝いぐらい贈ってやるから。」
「うん、じゃあ連中に本音でお別れ言ってきます。ほら、もう泣きそう・・・」
「ああ、珈琲はすぐ持って行ってやるからな。」


