2007年10月29日

▽NZからの香り

11月も程近い秋の日の午後。
いつもならお昼の後の片付けと夕方に向けての準備に余念のないマスターが、洗い物もせずフィルターの中に量り入れた珈琲の豆を見つめている。
いつまでも片付かないカウンターの中に気付いたウエイトレスが声を掛ける。

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「あらっ?マスター、いつもと違う香りがしませんか?」
「チッ!気付きやがったか。ちょっと試しに飲んでみようと思っていたのにな。」
「ずるい、マスター。私にも飲ませてくださいよぉ。」
「最近敏感だな。多少は珈琲の味がわかってきたのかな?」
「食い意地が張ってるだけですよ。でもどうされたんですか?普段はこんなことしないのに。」
「NZのYさんのお土産さ。帰国前に味見して感想を伝えたいからな。営業中にもかかわらず封を開けちまった。」
「マスターも・・・我慢って物がないんですか?とりあえず休憩時間まで待てなかったんですか?」
「だって3袋もあるんだぜ?気に入った豆があったら最後にもう1度Yさんにお願いして少し多めに手に入れたいからな。」
「えっ?最後って・・・Yさん、また別の国に移っちゃうんですか?NZにいらっしゃるうちにって今、旅行費用貯めてるんですよ。向こうでお世話してもらおうと考えていたのに・・・。で、今度はどこなんですか?この前は中東だったんでしょ?このところシンガポールからも連絡して来てましたよね?ひょっとしてそっちに転勤なんですか?」
「いや、帰って来るんだ、東京に。15年ぶりの本社勤務なんだと。随分と箔が付いて帰ってくるんじゃないか?」
「え〜?格好良い〜!それじゃあもう少し頻繁に来てくれるかなぁ。」
「お前、また守備範囲広げたのか?相手にもしてもらえんだろうがな。」
「違いますよ。素敵なCDを紹介していただこうと思って。このお店のBGMもマンネリでしょう?たまにはいいかなって思って。」
「それは駄目だからな。紹介してもらっても自分ちで聞けよ。まあ、これまでよりは来れるだろうな。帰国して、仕事の合間を縫うように通ってくるわけじゃないからな。時間的な制約が少なくなるだろうし・・・っておいっ、俺の作業の手を止めさせるな。きちんと淹れられたら飲ませてやるから。」
「もう淹れ終わったんじゃないんですか?」
「馬鹿言ってるんじゃない。1杯分づつメッシュや注湯方法を変えて一番美味しい淹れ方を見つけなきゃならんのだぞ。ちょっと30分ぐらい放っておいてくれ。」
「お客さん、来ますよ。」
「常連だったら待たせとけ。マスターに怒鳴られるとでも言っておけよ。」
「いいんですか?オーナーに言いつけちゃうぞ。」
「うるさいぞ、静かにしていろ。」
「あ〜あ、もうこうなったら何言っても無駄ね。本当に知らないから・・・。」

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posted by 銕三郎 at 00:00| 東京 ☀| Comment(5) | TrackBack(0) | 珈琲店の常連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月15日

▽常連の壮行会

徐々に日が短くなって来た秋の日。
とっくに閉店時間を過ぎたが、店内からは明かりが伸びている。
荷物を抱えた女性の常連客が慌てた様子で店の扉を開ける。

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「みんなまだ居ますか?」
「ああ、お前さんが来るまでは帰らないって奥のほうでとぐろ巻いてるよ。」
「ああよかった。ちゃんとお別れが言えないかと心配していたの。マスターにもご迷惑掛けて済みません。あ、これ石鹸ですけど使って下さい。」
「なあに、いいよ。それより本当に突然だったなぁ。旦那さんの都合だって?最初聞いたときはお前さんのことだ、旦那を単身赴任で放り出すんじゃないかって噂してたんだ。」
「何よそれ、ひど〜い。」
「だって、娘さんのこともあるから、転居なんてましてや地方になんて絶対行かないと思ってたのにな。」
「マスタ〜、私のことどんな風に思ってたのよ!」
「ん?ここでの普段のお前さんを見ていると、田舎暮らしは絶対無理だと思ったんだ。ご近所さんとの濃密な関係は疲れるぞ、お前の性格からしたら・・・」
「それはそうね、すぐに深入りしてなんもかんも背負い込んじゃいそう・・・って何言わせんのよ。」
「そうそう、そんなんじゃあ関西では笑いも取れんしな。」
「あ〜もうマスターったら。私が引っ越すのはお笑いの修行のためじゃないし、引越し先は関西じゃないの。わかってる?私が来なくなると寂しいからって、常連のあの子達みたいなノリで別れの雰囲気ぶち壊さないで!」
「別に、寂しいのは俺じゃなくってお前のほうだろ?お店のマスターってのはな、待つのが仕事なんだ。極端な例を出せば、亡くなったことがわかっている常連だって俺は待ってるんだ。この店の中では普段の生活がどうでも関係ない。この店に一歩入れば俺のリアルなんだ。そしてその「リアル」を共有したいと集まってくるのが常連だろう。」
「マスターのバカ。解ってるわよそんなこと。旦那に付いて行くって決めたのは私だし、娘を説得したのも私なんだからここに通えなくなる寂しさを一番解ってるのは私よ。連中の優しい言葉聞いたらここでの『私』じゃなくなりそうだから、それまではどうしても『私』でいたかったのに。」
「悪いな、ガキ共に頼まれたんだ。連中はお前ほど店の中と外での顔は違わない。これからも連絡を取るにせよ、お前さんの本当の顔を見ときたかったんだろ。飄々と引っ越すことを伝えて帰っちまったからな、この間は。」
「マスター、覚えてなさいね。私は「素」のほうがキッツイんだから。ぜ〜たいお返ししてやるんだから。」
「おっと、それは勘弁しろ。ほら、連中が待ちくたびれてるぞ。早く行ってやれ。」
「なんだか肩の力が抜けちゃった。そうだ、まだ珈琲のオーダーは大丈夫?」
「ああ、うちにないもの以外ならなんだって作ってやる。とりあえず最後だからな。」
「それじゃあ今までの私じゃ絶対に頼めなかった『カフェキュラソー』がいいわ。」
「クールじゃないが砂糖のような甘さではない、今のお前にはぴったりなチョイスだな。爽やかなオレンジの香りもにくい演出だ。」
「私のために遅くまで本当にありがとうございます、マスター。豆の注文は以前に教えていただいたアドレスでよかったんですよね。」
「ああ、OKだ。メ〜ルは気長に待っててやるよ。どうせ引越しでごたついてるんだろうしな。落ち着いたら連絡してこい。引っ越し祝いぐらい贈ってやるから。」
「うん、じゃあ連中に本音でお別れ言ってきます。ほら、もう泣きそう・・・」
「ああ、珈琲はすぐ持って行ってやるからな。」

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posted by 銕三郎 at 00:00| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 珈琲店の常連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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